泥酔会



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ] キーワード: 真理 信仰 生き方


10件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[10] <集団的自衛権?>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 7月 4日(金)08時40分3秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

イラク戦争で米国を支援せんかったから、後のご褒美に与ることができなんだ。じゃから今度は米国様の悪行の片棒を担げる準備をしときましょっつのが集団的自衛権じゃないのけ?要は勝ち馬に乗っかっときゃ損せんで済むっちゅ理屈じゃろ。実際、今のご時勢、米国様に本気で戦争仕掛けるような根性のある国はもうないわい。
けんどもアメリカっつな、日本の非武装民間人を人質にとって無条件降伏を要求してきたお国。ただ戦争に勝つことだけを目的として哀れな日本人をそれこそ無差別に何十万人も虐殺した野蛮国じゃ。それだけでは飽き足らず、南京大虐殺を捏造して歴史までも書き換えおった非道な連中なんじゃ。それでもアメリカと同盟らしきものを結んでおるのは、一番性質の悪い連中をひとまず敵にまわさんでえーようにするためじゃろ。別に仲良くするためでもなけりゃ、自分らを守ってもらうためでもありゃせん。しかもその腐れ同盟のために日本はぎょーさん金をふんだくられとるのが現状じゃ。なしてそんな奴らにこれ以上集団的自衛権でもって媚びねばならんのか。そりゃつまり今の政権が連中の犬のまんまっちゅ証じゃろ。
アメリカはいつまでたっても、どこまで行っても、自分たちの損得勘定だけで動く国で、決して道義なんぞで動いたりはせん。日本がやられて自分たちの損になると判断すりゃ日本につくが、得にならんと判断すりゃ何もせん。じゃから、日米同盟の片務性なんぞ、な~んも気にするこた~ないんじゃ。
日本がアメリカ様の悪巧みに加担したって得することなんざ、な~んもないわい。
よしんば目先のおこぼれに与れたところで、その報いとしわ寄せを逃れることはでけん。そういうもんじゃ。
ほんでも決まっちまったもんは仕方ないか・・・属国の歴史、ここに極まれりってか?




[9] <電力不足の妄言>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月26日(水)10時33分13秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

以前の電力会社の説明によれば、原発が稼働しなければ供給電力が絶対的に不足して、国民の生活、並びに日本経済は大打撃を受けることになるはずなのだが、昨年の9月15日以降、稼働中の原発は一基もない。はてさて、これまでに原発停止を原因として電力供給の途絶えた地域なり都市なりがあっただろうか。つまるところ、彼らが憂えていたのは供給電力の不足ではなく、その売り上げが落ちることであったに過ぎない。

もともと脱原発派は原発が即時全停止しても電力が不足することはないと主張してきたのだが、結果的にその主張は正しかったことが明らかになったわけである。
これで原発安全神話のみならず、その必要論についても根拠を失ってしまったといえるだろう。他方、火力発電が中心となれば地球温暖化はどうなるのかという議論もあるが、地球温暖化の原因を人為起源の二酸化炭素とする主張も、もとを辿れば石炭産業界の御用学者と原子力産業界の御用学者が始めた論争で言われ始めた話だというから、これまた随分と怪しいものである。

結局、わが国に原発は必要なかったのだ。にもかかわらず、それが次々と造られてきたのは、自前のエネルギー確保という建前のもと、将来における自前の核武装を見越してのことだったといえるだろう。しかし、そのために今、東南海大地震を目前に控え、日本はかつてない危機を迎えている。原発は稼働していなかったとしても、それが存在する限り、甚大な事故の起こるリスクを回避できないからだ。「核を持っていなければやられるかも知れない」―目的のためには手段を選ばずという退廃を受け入れるとき、自らが抱く恐れと不安が己自身を追い詰めていく構図には、国家も個人も大差がないのかもしれない。



[8] <原発推進派の死角>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月26日(水)10時29分56秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

原発推進派は、福島の事故は人災なのだから、人がより謙虚に対策を講じさえすれば事故は防ぎ得ると主張する。だが、果たして本当にそうなのだろうか。
福島第一原発事故に限らず、原発事故はどれも人災である。なぜなら、原発を造り、これを管理、運営するのは人間だからだ。人間はもともと不完全な存在なのであり、不完全な存在が造るものは完全ではあり得ないし、完全な仕事をすることもできない。即ち、人間が謙虚でありさえすれば、いかなる有事の際にも万全な対策をとり得るはずだと考えるのは、人間存在に対する幻想でしかなく、人災だから防ぎ得るという理屈は成立しない。

また、脱原発に向かうと無駄な国費を投じることになるという主張もある。確かに、脱原発に向けた努力を直ちに行えば、景気は一時的に低迷するかも知れない。このために与党は脱原発を選択できずにいるわけだ。しかし、では原発を稼働し続ければそれで安泰なのかといえば、決してそうはならない。
実のところ、原発は、そこに課せられる安全基準が高くなればなるほど、安全を確保するために投じるべきコストが大きくなり、エネルギー効率が悪くなるという本質的な矛盾を抱えている。つまり、それを造る側がより完全なものを造ろうとすればするほど、コストは跳ね上がるのである。その結果、原発が建設され始めた当初と比べ、エネルギー効率は格段に悪化してしまった。現に、シェールガス革命で天然ガスによる火力発電の方が圧倒的に効率が良くなったため、電力市場が自由化されている米国では、耐用年数に満たない無事故の優良原発が次々と廃炉への道を強いられている。

そもそも、人間に寿命があるのと同様に、原発にも寿命があるわけで、それが廃炉となる際には莫大な費用が発生する運命を避けられない。安全基準が高くなることで、廃炉に伴うコストも高騰する一方なのである。即ち、将来の廃炉を想定すべき原発運用には初めから巨額の費用が発生することが不可避であり、原発は稼働させた方がお得であるなどという理屈はナンセンスだ。理論上ですら、稼働し続けられる原発は存在しないのだから。
結局、原発推進の意味するところは、今後もそうした危険かつ低効率なお荷物を増やし、子々孫々に負担を押し付けようと言っているようなものである。原発の効率が保障される期間は限定的で、原発推進派の主張は近視眼的視座で問題を先送りにしているに過ぎない。今、脱原発に向けた費用負担を惜しめば、将来、さらに巨額の負担を強いられることだろう。

一方では、原発の問題は単に技術的な問題なのだから、核関連技術が一層進歩すれば原発もどうにかなると考える向きもある。だが、 新しい技術には常に新しい危険が伴うのだ。果たして、わが国で初めて原子力発電所が造られるようになったとき、福島のような惨事が起こることを予期し得た人間が何人いただろうか。少なくとも、原発御用学者である専門家諸氏は、理論上、このような事故は起こらないと断言していたのである。福島の事故は人間の不完全性を悟れぬが故の過ちなのだ。
実際、理論値としての10センチの線分を引くことすら、人間には不可能なのである。どんな達人がペンを握って格闘しても、幅をもたない直線を引くことはできず、長さにしたところで、せいぜい10.00が関の山。10.000000∞など100パーセント不可能。
つまりは、たとえ図面や理論上で安全な代物であっても、それは人間がその不完全な頭で考えた上に、不完全な作業を重ねて造りだすものであるということだ。そこに期待される安全のレベルなど高が知れているというものだろう。

かつて、核兵器開発に携わっていた科学者集団の多くは、これを実際に敵国に対して使用する必要はないと考えていた。つまり、示威行為で十分で、生きた人間相手にこれほど無慈悲で凶悪な兵器が使われたりはしないだろうと高をくくっていたのだ。彼らは、原爆の誕生こそが世界に平和をもたらすと信じてその開発に携わっていたのである。しかし、そうした科学者たちの予見はものの見事に裏切られ、人間は、目的のためには手段を選ばずという退廃の極致をヒロシマ、ナガサキで表現してみせた。
核関連技術がいかに恐ろしい惨事を引き起こすかを知っている日本人だからこそ、技術至上主義に陥って、何が本当に大切であるかを見失ってはなるまい。

もとより、日本人の矜持とは、他のいかなる国の人々より、惻隠の情と無常観を強く有する民族であるということではないだろうか。前者は相手を自分自身のこと以上に思いやる優しさであり、後者は、森羅万象の移ろいをあるがままに受け入れ、形あるものに拘泥しないという哲学だ。勿論、方々に異論はあるだろうが、日本人の矜持とはかくのごとしだというのが、偽らざる私見である。
ゆえに、産業なき貧しい地方は原発のリスクを受け入れたとしても仕方がないと構え、そこに暮らす人々の身を危険にさらし、自然を台無しにしてしまうことを良しとする都会中心的発想も、目に見える現世的な富と豊かさを維持するためにはそれもやむなしと構える刹那的な発想も、伝統的な日本人には似つかわしくないといえるだろう。



[7] <原発と原爆>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月26日(水)10時28分1秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

実のところ、原発を推進する方々の主張はわからないでもない。原発を造ってしまった以上、これを稼働させ続けねば利益を生み出すことができず、廃炉にするとなると巨額の損失を免れ得ないという理屈だ。確かに、脱原発ではたちまち原発で飯を食べている方々が大勢路頭に迷うことになるだろうし、とにかくその損失額は途方もなく大きいわけである。
一方、原発に何か事故が起こってしまった場合、その損害はさらに天文学的数字にはね上ることが予想される。沢山の方々が放射線障害で亡くなる事態を招けば、それはもはや数字だけでは決して表すことのできぬ惨劇となるだろう。

両者をてんびんにかけて、それでも原発推進が選択されてしまうのは何故だろうか。それはつまり、後者のもつ不確実性にあるといえるだろう。脱原発で生じる損失は多くの人々にとってリアリティーのある試算となるだろうが、原発推進で生じる損失は、前者に比べるとどうしても不確実とならざるを得ない。事故が起こるかどうかはわからないというわけである。こうして、確実な犠牲と不確実な犠牲とがてんびんにかけられた結果、確実な犠牲を避ける道が選択されているのだ。与党は確実な犠牲の大きさにびびってしまったわけである。

けれども、俯瞰する時間の幅を拡大していけばいくほど、後者はより確実さを増すことになる。実際、もともと原発御用学者らの言い分によれば、原発は絶対安全だったはずだが、原発を長く(といってもせいぜい40年ほどだが)稼働させてみてはじめて、それらの言い分が、単に限定的な期間でのみ有効な妄言に過ぎなかったことが明らかになったわけである。

結局、俯瞰すべき時間の幅が長くなればなるほど、人間は現実感覚、あるいは平衡感覚を失ってしまう生き物であるようだ。ただ、これは高々80年程度の寿命しか持ち合わせのない人間にとっては仕方のないことなのかも知れない。実際、10年どころか、二、三年先を見据えることすら、多くの人々にとってはおぼつかない。喫煙習慣と縁を切ることのできない方々がいるのもそのためだ。長く吸えば健康を害することは明らかなのに、実際に健康を害して痛い思いをしてみなければ、タバコをやめることができないのだから。

さて、自前の核武装は独立国家の矜持であると信じる方々が自称保守派には大勢いる。確かに、力のせめぎあいの延長に今日の世界情勢は築かれているので、力の権化である核兵器は独立国家の体裁を保つのに好都合な道具なのだろう。それが使われるシーンでは必ず罪なき人々が大量に虐殺されることはわかっているのに、核抑止論という核兵器御用学者の理屈を盾に、その必要性が主張されるのである。しかしながら、核抑止論もまた、原発安全神話と同様に、限定的な期間でしか通用しない理屈に相違あるまい。核抑止には賞味期限が必ずある。先制核攻撃が勝利を確実にするなら、これを企図する国家は必ずでてくるだろうし、現に、そういうことをのたまう政治運動家がいなくもない。

原発と原爆とは異なるものであるが、原爆を造るのにはプルトニウムがいるわけで、これを得るために原発は必要不可欠な存在である。そしてどちらも自分さえよければいいというエゴのシンボルであるが故、原発と原爆にさしたる差異はないのかも知れない。より長期的な視点で見つめるならば、どちらも人類を破局に導く存在であることに何ら変わりはない。

物理的な力の優劣が目に見える世界のありようを決定するのは天理だろう。しかし、その天理に屈して目には見えぬ人道を蔑ろにする文化なり文明なりに待ち受ける未来には破滅しかない。人間は本質的に神聖な存在であり、その本質に背く道が選択されるなら、滅びる他ないと確信するからだ。さすれば、日本という崇高な国が何より保守しなければならないのは、目的のためには手段を選ばずという退廃ではなく、非道に手を染めるよりは潔く死を選ぶという気高さではないだろうか。



[6] <宗教と科学>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月25日(火)19時30分30秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

宗教と科学、それは人が抱く知への渇望にこたえる両輪であって、人の営みにおいては、本来どちらも欠くことができないものだ。
わかりやすく言えば、宗教は人間の抱くWHYにこたえる手段であり、科学はHOWにこたえる手段だということである。実のところ、科学は、何故そこに美を感じるのかといった素朴な疑問にさえこたえるができない。生きねばならぬ理由、死なねばならぬ理由もまた同じ。科学はそれ自体、もともと手を出せる領域が限られているのである。

確かに、HOWを知るだけで人生に納得できる間は宗教など不要である。しかし、それだけでは満足できなくなったとき、WHYを知ろうとする欲求が生まれるのだ。これが宗教的希求である。それは、誰にでもあるというものでもなく、かといって自覚がないからそれがないというわけでもない。厄介なのは、それが自覚されぬまま高まって放置されたときだ。支える代物が大きくなっているのに、そこにあるべき片輪がないとなれば、バランスを崩してしまうのは必至。多くの人が心を病む理由はそういうところにあるのかも知れない。

結局のところ、宗教的希求を有する者とそうでない者との議論は決してかみ合うことがない。土台、その精神生活において、求める知の性質が異なるのだから。



[5] <核武装に替えて>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月25日(火)19時27分33秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

確かに、独立国家としての矜持を保つべく、不安定な国際情勢を抱える国々が核武装を企図するのが今の時代の趨勢といえば趨勢なのかも知れない。けれども、そもそも核を持つ理由が相手の核を使わせないことを目的とするなら、そのための方法は何も核武装である必要はないわけだ。互いが核を持つようになってしまえば、その先にあるのは文化文明の自滅、いうなれば共倒れである。

核武装は思考停止の産物に過ぎず、発想を柔軟にめぐらせて多方面から目的を達成すべく努力を払う必要があるのではないだろうか。
例えば、世界でもっとも敬愛され、必要とされる国であり続けることは、そのための手段の一つとなり得るだろうし、核を使わせないための国際法を整備拡充するのも良いだろう。近隣諸国に対しては、経済的な互恵関係を緊密にして互いに相手国への攻撃が自国の経済的損失に直結するようなシステムを構築するのも一手である。

ハード面では、特殊なハッキング技術の開発によって敵国のコンピュータに侵入し、核弾頭の起爆装置をコントロールするアイディアも良し。飛来する核弾頭を撃墜するレーザー技術の開発に力を注ぐのも、方向性としては悪くない。実際、理論上とはいえ、核兵器そのものを使用不能にしてしまう技術も考案されており、矛に矛で応じるばかりが全てではなく、盾で応じることを考えてもよいはずなのだ。

そうして生み出されたアイディアの数々は、この血生臭い世界の歴史を変革する原動力となるかも知れないし、そのようなことができる国はまた、日本をおいて他にないことだろう。確かに、弱肉強食こそが今ある世界のスタンダードであるのは間違いがない。しかし、未来の国際社会にとって、そうではない価値基準を世界のあるべき姿として新たに指し示すことの方が、自己保全のために安直な核武装を唱えるより、ずっと意義深いことではないだろうか。

勿論、こうした見解に対し、実効性の有無に懐疑的な意見はあるだろう。しかしながら、実効性が定かでないという点においては、実は核武装にしてみたところで大差はないのである。人類にはすでに核兵器の使用経験があり、相手が核をもっていようがいまいが、やるときにはやる、しかも徹底してやれば反撃の機会を奪うことだってできなくはない・・・などと考えるのが人間だからだ。

つまりは、相手に核を使わせぬための核武装などと言ってみたところで、長期的に時を俯瞰するなら、実効性には懐疑的とならざるを得ないわけである。とすれば、行き着くのはどういう選択に傾注するのが美しく誇らしく生きられる(死ねる)のかという問題だ。ゆえに、核武装断固拒否で良いといえるのではないだろうか。

仮に、やられたときにやり返すための核武装だという威勢の良い話であるなら、わが国が核武装していの一番にやらねばならないのは、米国に借りを返すことだ。けれども、米国も馬鹿ではない。アメリカに核を落とす権利を有している世界で唯一の国がわが国である以上、絶対にそれを容認するはずがないのである。ということは、実現困難という意味でも、愚見と核武装に大差はないといえるだろう。

結局、属国状態らの脱却、真の独立には、核武装を声高に叫ぶより、核の傘からの離脱の方が現実的なのだ。それによって、より対等の同盟を結び得るからだ。真の独立には決死の覚悟が必要不可欠というわけだが、果たして現代の我々にそれだけの勇気があるのだろうか。いずれにせよ、そういうやせ我慢にこそ、日本的な美しさを感じずにはいられない。



[4] <核武装の誤謬>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月25日(火)19時26分20秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

戦争に勝つためであるなら、いかなる非道も許されるという合理主義は最終的に核兵器を生み出した。その使用に際しては人道も武士道も全く介在の余地がなく、非武装市民が標的とされる。核兵器こそは近代合理主義の権化にして目的のためには手段を選ばずという退廃のシンボルそのものなのだ。

昨今、ネット上では大東亜戦争をはじめとする近現代史が見直され、中国韓国北朝鮮の日本に対する主張がいかに根拠薄弱で異常であるかが詳らかにされつつあるようだ。その一方、それらの国々からの挑発に応じて、核武装を何の躊躇もなく主張する自称保守派を見かけることも多くなってきた。
日本人としてのアイデンティティーを何に求めるのかという問題でもあるかもしれないが、日本を護持せんと欲するなら、防衛に際しても日本らしい精神のあり方と矛盾しない方法を選択すべきではないだろうか。他者を思いやる惻隠の情と、目に見える森羅万象の移ろいをあるがままに受け入れる無常観こそがその精髄だとするなら、こうした日本精神を喪失した国は、もはや日本と呼ぶにふさわしくないことだろう。

この意味で、日本精神と核武装とは、決して相容れることがないものなのだ。それは原発も同じことである。単に国土と国民の平穏を守ることのみを目的として核兵器を欲するのなら、アメリカの属国などという中途半端な立場でなく、そのままアメリカ領になってしまった方が良いに決まっている。ハワイのごとく、アメリカ合衆国日本州で十分なのだ。日本という国の存在意義を考えるとき、真に日本を守ろうと思うのなら、核武装など絶対にすべきでないという結論に達する。

ただ、誤解のないよう付け加えるなら、この主張は国防の努力を怠ってよいということではない。大事なのは手段を選ぶこと、日本人としての誇りを失わずに済むぎりぎりの選択が何かを考えるべきだということだ。そして、そのための方法は、国家と国民とが核と決別する勇気を示すことによってしか得られはしないことだろう。



[3] <哀れな人々>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月25日(火)19時24分36秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

大東亜戦争を侵略戦争と位置づけ、南京大虐殺や従軍慰安婦のごとき虚構を既成事実として論を進める反日日本人の存在程、哀れなものはない。自らの見識、常識が何によって築かれたものであるかの検証を怠り、疑うことすらしないのは無知と怠惰と傲慢の故だが、人は誰しもそうした性質を大なり小なり抱えているものではある。それでも己の見識と異なる意見と接した際、それを新たな視点の獲得として楽しむことができるか否かが、結局は論者の資質を左右するのではないだろうか。優れた資質がありさえすれば、それらの虚構に気づき、真実にたどり着くのはさほど難しくはない。

わが国に根強く横たわる自虐史観は、戦後、米国に対する日本人の怨恨の芽を摘むと同時に、米国の犯した戦争犯罪を正当化することを目的としてGHQによりつくりだされた虚構に過ぎない。彼らは巧妙にマスコミを利用し、教育を誘導してそれを日本人に植え付けてきたのだ。即ち、日本は戦後の長きにわたって戦勝国に真実の歴史を奪われてきたというわけだ。歴史は常に勝者によって書き換えられるもの。故に、かの大戦もまた一方的に侵略戦争であったなどといえようはずがないのである。事実、マッカーサーですら、大東亜戦争が日本の自衛戦争であったことを認めているのだから。

明治維新後、日本が歩んできた戦争の歴史は欧米列強による植民地支配に対する抵抗の軌跡であった。それは必要に迫られたがゆえの選択だったのだ。奴隷制をその歴史に持つ欧米諸国は弱肉強食の論理そのままに東アジアを植民地化し搾取簒奪を繰り返していたのである。何故日本が徳川統治下の平和な暮らしを捨て、明治維新を経て軍国主義をひた走らねばならなかったかといえば、ひとえにそうした国際情勢があったからだということができるだろう。列強を相手に武器を手にとらねば、日本は他のアジア諸国と同様、欧米からの植民地支配を免れることはできなかったのだ。

幸いにして日本には重厚な歴史と高度な文化があり、それらを背景に多大な犠牲を払って列強の支配に何とか対抗することができた。だが、彼らと覇を競うにはあまりに国土が狭く資源に乏しい国であったがゆえに、資源を求めて広くアジアに進出せざるを得なかったのもまた事実である。それを一方的に侵略と呼ぶのはアンフェアだ。仮に侵略的な側面を否定できなかったとしても、少なくとも日本は欧米のごとき搾取を目的としていたわけではなかった。なぜなら、その根底には欧米支配にアジア一丸となって戦う共存共栄の理念があったからだ。その理念を具現化すべく、日本の統治は各々の地域固有の文化を尊重した教育を推進する傍ら、インフラの整備拡充を図り、東アジアの近代化へ向けた礎を築き上げる努力を怠らなかったのである。それらは大戦後、次々とアジア諸国が独立していった事実が証しているし、日本の功績によって各国の独立が数十年は早まったというのが、独立を成し遂げた国々に共通の歴史認識なのだ。そうした歴史のうねりの中で満州もまた日本統治下に著しく発展し、今日の中国発展の原動力となったことは多くの史家が認めるところで、それは韓国においても然りである。実際、特亜三国を除くアジアの全ての国々が今日も日本を敬い、日露戦争で勝利して白人の猛威に楔を打ち込んだ日本人の偉業を称えている。

結局、大東亜戦争もまた、アジアの一等国日本をくじくべく経済制裁を強いてきた米英に対して避けては通れぬ自衛戦争だったのだ。戦わねば国民が餓えてしまうという切羽詰まった状況がそこにはあったからだ。
つまり、当時から本当に侵略を繰り返していたのは米英の側だったわけである。それが証拠に、今日でも覇権国家アメリカは世界の国々に向けて理不尽な暴力を繰り返しているではないか。
一方、日本はといえば、戦後の焼け野原から短期間で不死鳥のごとく復活するや否や、ODAと称して世界中の開発途上国に資本を投下してその発展を支えてきた。うち中国は被害者を装うことで日本から高額の援助を引き出した国でもあるが、自国民には全くその事実を伝えていない上、自らは米英の歴史に倣って周辺諸国を侵略、虐殺を続けているのだから呆れるばかりだ。こうした現状を鑑みるだけでも、日本と彼らのどちらの側に正義と真実があるかは明らかではないだろうか。南京大虐殺などなかったのである。

このように、現状から遡って歴史を真摯に俯瞰するなら、日本の軍国主義を諸悪の根源とし、その自衛の歴史を侵略だなどと能天気に位置づけることがいかに愚かで無意味であるかがわかるというものだろう。それを外国人が侵略と呼ぶならまだしも、子孫のために祖先の流した血のしみ込んだ大地に暮らす日本人がそのようにのたまうのは、実に罪深いことだと思わずにはいられない。



[2] <泥酔会発足>

投稿者: SHO 投稿日:2014年 2月25日(火)19時19分25秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

日々の雑多な関心事について、素朴な視点から薀蓄、屁理屈の類を垂れ、なんとなく世間を知り、己を知ったつもりを味わうことを趣旨とする掲示板。
酔っぱらいのおやじ談義をこえぬ庶民による意見交換の場ということで泥酔会と名付けます。



[1] 掲示板が完成しましたキラキラ

投稿者: teacup.運営 投稿日:2014年 2月25日(火)19時17分15秒 p19225-ipngn100104okayamaima.okayama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

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